出張先での雑記帖



博多
Hakata


気分転換に旅先(モチロン仕事)での画像をお届けします!
(印象に残った画像を都度掲載予定です)






2024年 10月 2日(水) 博多(福岡)

<ぶらり博多>

博多駅周辺の歩道に
「鳥・ヨット・街並みなどの抽象的なデザインの組合わせ」
が描かれたザインマンホール蓋が設置されています。

ハートマークが描かれたFUKU 51 MANHOLE蓋は
福岡市下水道事業88周年を記念 「FUKU 51 MANHOLEプロジェクト」
で製作(市内限定51枚)されたそうです。



ノンビリと散策できました!



福岡市下水道博物館
デザインマンホールギャラリーには
福岡市のデザインマンホール蓋
が展示されています



櫛田神社
博多の総鎮守
ユネスコ無形文化遺産
「博多祇園山笠」で有名な博多の守り神


博多塀
豊臣秀吉による町づくりの際
焼け石や焼け瓦など
まさに瓦礫を用いた土塀



2014年 6月28日(土) 博多(福岡)

<2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」>

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。三人の天下人に愛され、恐れられた男、官兵衛。
その類いまれな知略と先見性で戦国の世を駆け抜けた知将・黒田官兵衛孝高(如水)は、
戦乱の世にあって「戦わずして勝つ」を実行した、奇跡の名将といえるかもしれません。

<黒田藩ゆかりの神社 光雲神社>

 光雲神社は、福岡藩の藩祖・黒田官兵衛と初代藩主・黒田長政の親子を祀る神社です。
神社の名前は、2人の龍光院殿(如水)、興雲院殿(長政)という法名から
一字ずつ取って名付けられたそうです。

  
※中洲/元祖博多ラーメン/博多天ぷらたかお

久しぶりにリフレッシュできました!



光雲神社
元々は福岡城内本丸天守台の下に作られた
神社だが、明治4年の廃藩置県により
黒田家が東京に移転した際、
現在の警固神社近くに移転されました。
その後、西公園山頂へと移ったそうです。




母里太兵衛の銅像
福岡藩士で黒田二十四騎の一人
母里太兵衛の像
右手に持つのは名槍日本号

像の下部には、
「黒田節」の歌碑が刻まれています

水牛の兜
福岡藩初代藩主・黒田長政が愛用した
水牛の兜は、もともと浦野半左衛門勝元という人
が持ち主で、勝元が長政に仕えるときに献上
したものと伝えられています。

長政はこの兜がたいそう気に入り、
よく着用したようです。

家紋「藤巴紋」
荒木村重が織田信長に謀反を起こし、
その説得にあたった官兵衛。
しかし官兵衛は説得する所か
村重の城に閉じ込められてしまいました。
窓の外から見える、日ごとに大きくたくましく
育ってゆく藤蔓(ふじづる)。
そんな藤蔓に励まされ、
つらい獄中生活に耐えていた官兵衛は、
村重の城から出た後、
黒田家の家紋を藤巴に選んだのでした。



2014年 1月18日(金) 博多(福岡)

<ぶらり福岡>

福岡と博多の違いは?

屋台が並ぶことで有名な那珂川沿い。
この川をはさんで東側を「博多」、西側を「福岡」と呼ぶことがあります。
これは、かつて商人の町・博多と武士の町・福岡に分かれていたからです。
福岡市のことを「博多」と呼ぶのも、中世から「博多」という名前が認識されていたことや、
山陽新幹線の終着駅が「博多駅」であり、
ビジネスマンたちが福岡へ出張することを「博多に行く」と言うなど、
「博多」という名前が浸透していたことによります。
「福岡」の名は、江戸時代に現在の中央区に福岡城が築かれたときに付けられました。
1889年には、福岡市にするか、博多市にするか議会で議論されたこともありますが、
わずか1票差で福岡市となったエピソードも。
福岡と博多を合わせて「福博」と呼ぶこともあります。

「福博であい橋」
武士のまち「福岡」と商人のまち「博多」が出会う場所ということで、
「福博であい橋」と命名されたそうです。



   

左から 博多ラーメン(一蘭)、どん麺、クエ鍋、イカ造り(呼子)


久しぶりにリフレッシュできました!



櫛田神社
博多の総鎮守として、「お櫛田さん」
の愛称で広く市民から親しまれている神社。
境内の入り口付近には「櫛田の銀杏」
と呼ばれる樹齢約1000年の銀杏の木がそびえる



櫛田の銀杏

ふるさと館
櫛田神社向かいの「博多町家」ふるさと館。
ここは明治・大正時代の博多の
暮らしと文化を楽しく紹介する施設。
明治時代の町家を移築。


博多壁

貴賓館(天神中央公園)
数少ない明治時代のフレンチルネッサンス
を基調とする木造公共建物。
国の重要文化財に指定され保存。


福博であい橋の中洲側たもとに立つ
三人舞妓銅像

福岡城跡
初代福岡藩主・黒田長政が、
慶長6年(1601)から7年がかりで築城。
平山城で、大中小の各天守台
と約50の櫓があった。別名「舞鶴城」


下之橋御門と(伝)潮見櫓



2012年 2月11日(土) 博多(福岡)

<ぶらり福岡>

福岡と博多の違いは?

福岡市の陸の玄関口はJR博多駅で、観光客や転勤者の方々は、
福岡市に「博多」と「福岡」という二つの名前があることに戸惑われるかもしれません。

「博多」という地名は、奈良時代の八世紀には登場しますが、
「福岡」は、1600年の関ケ原合戦の功により筑前国主となった黒田長政が、
福崎(現在の赤坂付近)の地に新しく城と城下町をつくり「福岡」と改めたことによります。
それ以後、城下町「福岡」と古くからの商人の町「博多」という双子都市になりました。

福岡市が誕生した翌年の1890年に、
福岡市会(当時の市議会)で市名を「博多市」に変更する建議が出されましたが、
議長裁定の1票差で否決されたことは有名なエピソードです。


久しぶりにリフレッシュできました!



中洲(那珂川
<中洲>

那珂川の流れに沿って
北西から南東にかけて
約1キロの細長い地形を呈する。
北東から南西にかけての横幅は約200メートル。


三人舞妓
那珂川を挟んで、
武士の町「福岡」と商人の町「博多」が
出会う場所として名づけられた「福博出会い橋」。
その博多側のたもとに立つのが、
三人の舞妓の銅像です。

博多人形師「小島与一」が、大正14年(1925年)に
パリ万国現代装飾美術工芸博覧会において、
銅賞を受賞し、
「ハカタ・ドール」として世界に知らしめた
同名の作品がモチーフとなっているものです。

おたふく面(櫛田神社
<おたふく面>

2月の節分の日に行われる櫛田宮のお祭りで、
日本一の”おたふく面”が飾りつけられ、
能舞台からは年男・年女・地名士による
豆まきが随時行われます。

博多風神雷神(櫛田神社
<博多風神雷神>

拝殿の破風の左右に掲げられている
風神雷神の木彫りは風神が
あっかんべぇをして雷神から逃げる様子で
ユーモアあふれる博多っ子の気質を表している
といわれ ています。

この風神雷神は博多座に展示されている
緞帳のモチーフとなっています。

干支恵方盤(櫛田神社
<干支恵方盤>

楼門の天井に吊り下げられていて、
毎年大晦日に新しい年の恵方を示すように
矢印が回転されます。

また、楼門の額「威稜」は「いつ」と
読み天子・天皇の御威光という意味です。

飾り山(櫛田神社
<飾り山笠>

博多祇園山笠とは、
福岡県福岡市の博多区で
毎年7月1日から7月15日にかけて
開催される700年以上の伝統のある祭である。
櫛田神社にまつられる
素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭のひとつ。
正式には櫛田神社祇園例大祭。
博多どんたくとともに、博多を代表する祭りである。

住吉神社
祭神、底筒男神・中筒男神・表筒男神の
住吉三神。式内社。筑前国一宮。
昔の地形は博多湾に臨む那珂川河口の岬だった。

全国に約2000社ある住吉神社の始源と考えられ、
開運除災・航海安全・船舶守護の神
として崇拝されてきた。

楽水園
博多区・住吉神社の北側ある日本庭園。
明治時代に建てられた
博多商家の別荘を茶室棟として改築し
その中に当時の茶室を「楽水庵」復元したもので、
四季折々の緑と水辺のうるおいに満ちた
甘美な香り漂う美しい日本庭園だ。
当時の博多豪商の優雅さを垣間見ることができる。

石城山 妙楽寺
<ういろう伝来の地>

今では名古屋名物の
「ういろう」が伝来したお寺です。
博多の豪商 神屋宗湛・伊藤小左衛門
や黒田藩家臣のお墓もあります。

南岳山 東長寺
弘法大師が日本で最初に開山した密教寺院>

空海が日本で最初に創建したお寺です。
真言密教が東に長く伝わるようにと
祈願されたそうです。
弘法大師が創建したお寺としては
日本で一番古い霊場です。

旧福岡県公会堂貴賓館
「第13回九州沖縄八県連合共進会」
の開催に際して、
会期中の来賓接待所を兼ねて
明治43年(1910)3月に建設。

旧公会堂の内、貴賓館は、
数少ない明治時代の
フレンチルネサンスを基調としている。

木造公共建物として貴重であり、
国の重要文化財(建造物)に指定。

旧日本生命九州支店
明治時代のわが国を代表する建築家
辰野金吾、片岡安の設計により
明治42年(1909)、
日本生命九州支店として竣工。

 尖塔やドームを有するなど
小規模ながら変化に富む。
赤煉瓦と白の石材の組み合わせは、
19世紀末に英国で流行したスタイルである。