出張先での雑記帖



京都
Kyoto


気分転換に旅先(モチロン仕事)での画像をお届けします!
(印象に残った画像を都度掲載予定です)






京都(洛中)



2022年 7月 17日(日) 京都(京都)

<ぶらり京都>

<ポケふた>

2021年3月30日、京都市下水道90周年事業の締めくくりとして
ポケモンがデザインされたマンホール蓋「ポケふた」が
嵐山公園・岡崎公園・円山公園・
梅小路公園・西京極総合運動公園
市内5ヶ所の公園に設置されました。
伝説のポケモンのホウオウをはじめ、全部で10種類のポケモンです!




5枚のポケふたをコンプリート!暑かった!



梅小路公園のポケふた
JR梅小路京都西駅と京都鉄道博物館の間
「マリルリ&ワニノコ」


京都鉄道博物館
鉄道の歴史や安全、技術を学べる
日本最大級の鉄道博物館
SLから新幹線まで53両が集結



2022年 3月 12日(土) 京都(京都)

<北野天満宮>

「学問の神様」こと菅原道真公をまつる北野天満宮
北野天満宮は、全国に約12000社ある天満宮や天神社の総本社で、
古くから「北野の天神さん」「北野さん」と親しまれています。

<飛梅伝説>

北野天満宮の祭神・菅原道真は梅をこよなく愛し、
大宰府に左遷される際、日頃から愛していた邸内の梅の木に
「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と詠み、
その後梅が道真を慕って、大宰府に飛来したという「飛梅伝説」
飛んでいったとされる飛梅は、御神木として太宰府天満宮にあります。
北野天満宮の本殿前にある御神木「飛梅」は「紅和魂梅」なのですが、
「飛梅伝説」にちなみ、通称「飛梅」と呼ばれている御神木の梅です。




<牛にまつわる伝説>

太宰府へ左遷され同地で亡くなった道真公。
「人に曳かせず牛の行くところにとどめよ」との遺言から牛車に柩を載せ出発すると、
突然牛が道端で臥して動かなくなりました。
従者たちは「牛が動かなくなったのは、
道真公がこの地に遺骸を埋めよ」という遺志なのだろうと、
近くの安楽寺(現在の太宰府天満宮)に埋葬したと伝わっています。
この逸話から、
北野天満宮にある牛の像はほとんどが腰を下ろした姿勢で佇んでいます。





久しぶりにリフレッシュできました!



北野天満宮(三光門)
1607年に豊臣秀頼が建立
天井には日と月と星の3つの光が彫刻
として彫られていることから
この名が付いたとされています



北野天満宮(本殿)
国宝・本殿は1607年に
豊臣秀頼が造営したもので
八棟造と称され絢爛豪華な桃山建築



なで牛
牛が座り込んで臥してしまった姿を
「臥牛」と言いますが、
この姿こそが境内にいる牛の姿なのです


一願成就のお牛さま(最も古い牛の像)


梅苑
道真が愛した梅の花
境内には50品種、約1500本の梅の木
が植えられています。



2021年 9月 12日(日) 京都市(京都)

<世界文化遺産 西本願寺>


正式名称は龍谷山本願寺といい、浄土真宗本願寺派の本山。
親しみをこめて「お西さん」とも呼ばれています。


<縁側と廊下の埋め木>

阿弥陀堂・御影堂の縁側や廊下にできた亀裂や節穴を木片で埋めた修復跡。
昔の職人さんの遊び心とも言われていますが、わざわざ手間をかけて修復するのは、
「足元を見て欲しい:改めて自分の過去や今の存在を見つめ直してみる機会となって欲しい」
との想いが込められているのだそうです。
奥深いですね。




<唐門の修復>

修復完了は2022年3月だそうですが、修復のための足場や覆いが外され、
工事用の柵越しにピカピカの唐門を見ることができます。
修復前(写真の上段)後(写真の下段)の唐獅子の装飾を比較してみました。
黒漆塗を基調として極彩色をほどこした唐獅子が見事に修復されています。
まさに「獅子尽くし」ですね。




久しぶりにリフレッシュできました!



阿弥陀堂門
境内東側にある二つの門のうち北側にある門
切妻造、軒に唐破風がついていて
欅皮葺・金箔が印象的な壮麗な門


阿弥陀堂(本堂)
桁行45m、梁間42m、高さ25mの入母屋造り
本瓦葺き、800名以上が参拝可能
本尊である阿弥陀如来像を安置


御影堂門
境内の東側にある二つの門のうち南側にある門


目隠塀
切妻造、本瓦葺、真壁造の塀

御影堂(大師堂)
桁行62m、梁間48m、高さ29mの入母屋造り、
本瓦葺き、1200名以上が参拝可能
親鸞聖人の御真影を安置


唐門
豪華な彫刻が施されているのが特徴で、
見ていると日が暮れるのも忘れるほど
美しいとして「日暮らし門」
とも呼ばれています。


飛雲閣
豊臣秀吉が建てた
聚楽第の一部と言われており、
金閣、銀閣とともに
京都三名閣と呼ばれています。



2018年 12月 30日(日) 京都(京都)


<護王神社>

和気清麻呂公命とその姉である和気広虫姫命をお祀りしている護王神社

清麻呂公は平安京の建都に貢献されたとして、
孝明天皇により功績を讃えられ
「護王大明神」の神号が贈られました。
その和気清麻呂公は、都から九州へ流されて向かった際、
足の腱を切られて立つこともできない状態でした。
しかし、どこからか現れた300頭もの猪に守り案内され、
無事にたどり着けて歩けるようにもなったという故事から、
特に足腰の守護神と仰がれています。

   

※来年の干支は猪! 歳男です!


護王神社
イノシシが守る!足腰の健康なら護王神社
護王神社の入り口には、
狛犬ではなく狛猪のシンボルがあります


菅原院天満宮神社
菅原道真公がお生まれになった霊地
道真公の先祖三代がお住まいになった地
烏丸の天神さん



2018年 3月 31日(土) 京都(京都)

<世界文化遺産 二条城>


「元離宮二条城」(二条城)は江戸時代の慶長8年(1603年)、
徳川初代将軍家康が上洛時の宿所としてや京都御所の守護を目的に建てたお城です。
1603年家康が造営した当時、現在の二の丸御殿と天守部分だけでした。
その後、第三代徳川家光が寛永の大改修で二条城の西側に本丸御殿と天守閣を整備し、
ほぼ現在の形となりました。
平成6年(1994年)に世界遺産にも登録されました。

   

※桜が満開でした!


東南隅櫓
602年から1603年に造られ、
1625年から1626年に改修

二条城には寛永期に建てられた隅櫓が
本来四隅にありましたが、
1788年に起きた大火によって
そのうちのふたつが焼失してしまい、
現在はこの東南隅櫓と
西南隅櫓が残っているだけです。

東大手門
二条城の正門にあたり、
現在の東大手門は寛文2年(1662年)
に建築されたもの


唐門
切妻造の四脚門で、
堂々たる唐破風や極彩色の彫刻が特徴。


二の丸御殿(車寄)
遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、
黒書院、白書院の6棟が立ち並ぶ御殿
部屋数が33、約800畳という広大な空間!


車寄せ欄間

二の丸庭園
神仙蓬莱の世界を表したといわれる
小堀遠州の手による書院造庭園


天守台から見た本丸御殿
本丸御殿は、1893年から翌年にかけ、
京都御苑内にあった
旧桂宮御殿を移築したもの


清流園
1960年に作られた新しい庭で、
茶室などがある和風庭園と、
芝生の広がる洋風庭園とに分かれた
和洋折衷の庭



桜の薗
二条城のサクラは城内全域で、
約400本・50品種が植えられています




2018年 3月 31日(土) 京都(京都)

<平安京最古の庭園 『神泉苑』>

延暦13年(794)に桓武天皇が平安京の造営にあたり設けた苑地だそうで、
常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名づけられたそうです。
京都で最も古い苑池で、
嵯峨天皇が日本で最初に花見をした場所として現存するところです。
御池通りの名前の由来は、神泉苑の池にちなんでつけられたものです。

<神泉苑平八>

創業 寛政元年 受け継ぐ味と伝統。
美しき名称を眺めながらの美味なる京料理に舌鼓
どれもが歴史ある伝統の味なのです。
料亭から平安京最古の名勝を眺め、
うどんちり・しゃぶしゃぶ・京懐石を食べて頂くことができます。
船館 「龍王船」でのお食事も神泉苑の魅力のひとつです。

   

久しぶりにリフレッシュできました!



平安京最古の庭園 『神泉苑』
『神泉苑』は、平安京遷都の794年、
桓武天皇が平安京大内裏の南東にあたる
この地に皇族の為の庭園・禁苑として造営したもの。

清らかな泉が常に湧き出ていたことから
『神泉苑』と命名されました。

善女龍王を祀っている善女龍王社
日照りが続いた際、
東寺の弘法大師空海により
雨乞いの儀式が行われ、
その法力により水をつかさどる
龍神「善女龍王」が招かれ、
雨乞いに成功したとされています。

現在も龍神は「善女龍王社」として
池の中心に祀られています。

パワースポット 『法成橋』
『神泉苑』の一番のパワースポットは
朱塗りが目に鮮やかな「法成橋」。

この橋を本殿側から渡る時、
一つだけ願い事をしながら歩き、
その後に「善女龍王社」に参拝すると
願いが叶うといわれています!

日本唯一の歳徳神を祀る 「恵方社」
日本で唯一とされる
歳徳神を祀っている「恵方社」は、
訪れる年によって向きが
変わっている不思議な祠。

おわかりかと思いますが、
その名の由来は”恵方巻”と同じ恵方社。
良く見ると台座が回りそうな形になっていますが、
毎年大晦日の夜に翌年の吉方位・
恵方へ祠の正面が向けられるのだそうです。

数々の伝説の残る 『神泉苑』
龍神を祀っていたり、
恵方社がある『神泉苑』ですが、
実はお寺の扱い。
弘法大師空海が雨乞いをしたという由緒から
現在も『神泉苑』は東寺の管理になっていて、
現在も真言宗東寺派のお寺なのです。

本尊は聖観世音菩薩、不動明王、そして弘法大師。



2017年 8月 5日(土) 京都(京都)

<平安京最古の庭園 『神泉苑』>

延暦13年(794)に桓武天皇が平安京の造営にあたり設けた苑地だそうで、
常に清泉が湧き出すことから「神泉苑」と名づけられたそうです。
京都で最も古い苑池で、
嵯峨天皇が日本で最初に花見をした場所として現存するところです。
御池通りの名前の由来は、神泉苑の池にちなんでつけられたものです。

<神泉苑平八>

創業 寛政元年 受け継ぐ味と伝統。
美しき名称を眺めながらの美味なる京料理に舌鼓
どれもが歴史ある伝統の味なのです。
料亭から平安京最古の名勝を眺め、
うどんちり・しゃぶしゃぶ・京懐石を食べて頂くことができます。
船館 「龍王船」でのお食事も神泉苑の魅力のひとつです。

   

久しぶりにリフレッシュできました!



平安京最古の庭園 『神泉苑』
『神泉苑』は、平安京遷都の794年、
桓武天皇が平安京大内裏の南東にあたる
この地に皇族の為の庭園・禁苑として造営したもの。

清らかな泉が常に湧き出ていたことから
『神泉苑』と命名されました。

善女龍王を祀っている善女龍王社
日照りが続いた際、
東寺の弘法大師空海により
雨乞いの儀式が行われ、
その法力により水をつかさどる
龍神「善女龍王」が招かれ、
雨乞いに成功したとされています。

現在も龍神は「善女龍王社」として
池の中心に祀られています。

パワースポット 『法成橋』
『神泉苑』の一番のパワースポットは
朱塗りが目に鮮やかな「法成橋」。

この橋を本殿側から渡る時、
一つだけ願い事をしながら歩き、
その後に「善女龍王社」に参拝すると
願いが叶うといわれています!

日本唯一の歳徳神を祀る 「恵方社」
日本で唯一とされる
歳徳神を祀っている「恵方社」は、
訪れる年によって向きが
変わっている不思議な祠。

おわかりかと思いますが、
その名の由来は”恵方巻”と同じ恵方社。
良く見ると台座が回りそうな形になっていますが、
毎年大晦日の夜に翌年の吉方位・
恵方へ祠の正面が向けられるのだそうです。

数々の伝説の残る 『神泉苑』
龍神を祀っていたり、
恵方社がある『神泉苑』ですが、
実はお寺の扱い。
弘法大師空海が雨乞いをしたという由緒から
現在も『神泉苑』は東寺の管理になっていて、
現在も真言宗東寺派のお寺なのです。

本尊は聖観世音菩薩、不動明王、そして弘法大師。



2017年 4月 1日(土) 京都(京都)

<菅原道真が北野天満宮に祀られた理由>

道真は幼い頃より学問に励み当時最年少で国家試験に合格します。
中国の歴史や漢字を教える先生にもなり、
宇多天皇に重宝され、天皇の秘書にまで出世します。
しかし宇多天皇から醍醐天皇に代わると当時、
左大臣だった藤原時平によって大宰府へ左遷されてしまいます。
これが901年 昌泰の変(しょうたいのへん)です。
藤原時平から見れば、あまりに優秀な道真は政敵だったのです。
左遷された道真は京に戻る事が出来ず、
そのわずか2年後に太宰府で亡くなってしまいます。
そしてここから道真の祟りが始まるのです。

まず醍醐天皇の住む京都御所の「清涼殿」に雷が落ち側近が死亡し、
醍醐天皇もショックで体調を崩し崩御してしまいます。
本来、雷様は天神様でした。
都では不本意に太宰府に左遷された「道真の祟りが雷となった」
とうわさされるようになりました。
そしていつしか「道真=天神様」となっていくのです。

後醍醐天皇が崩御した後も、
道真を左遷した藤原時平も39歳という若さで死亡します。
その他にも次々と関係者が不遇の死を遂げることになります。
こうして道真の祟りに間違いないという恐怖がさらに強まっていくのです。
この祟りをどうすれば抑えられるのかと考えた結果
創建されたのが北野天満宮だったのです。

没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈りました。
その後、現在地の北野に道真を祀る社殿が造営されることになったのです。
全国に1万2,000社も天満宮があるということは、
当時からどれだけの人々が道真の祟りを
恐れていたかがお分かりでしょうか。
このように道真の生前の真面目で誠実な人柄と晩年の不遇が伝説を生み、
天神さまと崇められるようになったのです。
これが平安時代から現代まで1,000年以上、
盛んな天神信仰へと展開した背景です。


久しぶりにリフレッシュできました!



北野天満宮(本殿)
国宝・本殿は慶長12年(1607)に
豊臣秀頼が造営したもので
八棟造と称され絢爛豪華な桃山建築


三光門

神使の牛像
<牛が神使となった理由>
道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた。
牛が座り込んで臥してしまった姿を
「臥牛」と言いますが、
この姿こそが境内にいる牛の姿なのです


紅和魂梅
「東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花
主なしとて 春を忘るな」
”飛梅伝説” が伝わる
本殿前のご神木「紅和魂梅」




2016年 11月 6日(日) 京都(京都)

<京都五山>

五山制度は中国の宋時代に、禅寺の寺格を定めた制度。
日本でも鎌倉時代に宋に倣い取り入れられ、
鎌倉幕府によって五山が制定されました。
続く室町幕府は禅宗を保護したため、禅宗の普及とともに広まり、五山を制定。
後に室町幕府三代将軍・足利義満の時代に五山制度を改革し、
それまで京都と鎌倉の寺院で構成されていた五山を、
京都五山と鎌倉五山に分割しました。

まず鎌倉時代に始まった鎌倉五山の話から入ります。
中国・南宋の五山十刹の制にならって、鎌倉時代に北条氏が各禅刹の寺格を決め、
官が任命した住寺を順次上位の寺へと昇任させる五山の制度を取り入れ、
鎌倉にある主な五つの禅寺を五山としました。
これが鎌倉五山といわれます。
しかし武家中心の五山であったため、明確には制度化されませんでした。
一方、京都にも禅寺が相次いで開かれました。
そうした中、鎌倉幕府が倒れ室町時代になると、
京都を中心とした五山の順位が定められました。
早いものでは、「五山」は
第一.南禅寺(京都)
第二.東福寺(京都)
第三.建仁寺(京都)
第四.建長寺(鎌倉)
第五.円覚寺(鎌倉)
その後変遷を経て、暦応五年(1342)には
第一.建長寺(鎌倉)・南禅寺(京都)
第二.円覚寺(鎌倉)・天龍寺(京都)
第三.寿福寺(鎌倉)
第四.建仁寺(京都)
第五.東福寺(京都)
とし、浄智寺(鎌倉)を准五山とする、鎌倉優先の順位が定められたこともありました。

しかし、足利義満は相国寺を創建してのち至徳三年(1386)に、
鎌倉五山と京都五山の分離を行い、南禅寺(京都)は別格で「五山之上」とされ、
鎌倉・京都にあってそれぞれ最高位に位置する禅宗寺院の五大寺を

別格(五山之上)南禅寺
第一.建長寺(鎌倉)・天龍寺(京都)
第二.円覚寺(鎌倉)・相国寺(京都)
第三.寿福寺(鎌倉)・建仁寺(京都)
第四.浄智寺(鎌倉)・東福寺(京都)
第五.浄妙寺(鎌倉)・万寿寺(京都)

というように、対等に鎌倉と京都の禅刹が据えられました。
現在知られている鎌倉五山、京都五山が、この順位です。

このように五山制度はその時代や政治によって大きく変わり、
数も必ずしも五つとは限りませんでした。
また、大徳寺や妙心寺はかつては五山に数えられていましたが、
足利氏を中心とした政治的背景により五山から外れています。
京都五山の順位は時の権力者の思惑で、何度か変わっています。


<相国寺>
臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、
京都五山第二位に列せられる名刹です。
正式名称は萬年山相國承天禅寺。
十四世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建
相国寺を創建した義満は左大臣であり、
相国であることから、義満のお寺は相国寺と名付けられました。
また義満の時代は中国では明の時代でしたが、
このとき、中国の開封に大相国寺という
中国における五山制度の始まりのお寺がありました。
この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。
(金閣寺、銀閣寺がともに相国寺の塔頭寺院)


※撮影禁止のためパンフレットを撮影しました!


相国寺
庫裏は「香積院」と称し
大きい破風や壁面が印象的



庫裏

相国寺(方丈)
初建以来幾度も焼失して現在の建物は、
文化四年(1807)に再建
造りは一重、入り母屋造り、
桟瓦葺き、切妻造りとなっています。


裏方丈庭園

相国寺(法堂)
慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、
5回目の再建になり、
我が国法堂建築の最古のものである。


鳴き龍の名で有名な蟠龍図
(出典 www.rinnou.net)



2016年 10月22日(土) 京都(京都)

<京の花街・島原を訪ねて>

「島原」と聞くと、江戸の吉原と同じような“遊郭”をイメージする方も多いと思います。
しかし実の所、島原は老若男女、家族みんなで楽しめる“遊宴”の街だったのです。
吉原は遊女を閉じ込めた街で男性が楽しむための閉鎖的な場所であるのに対し、
島原は誰でも入れて食事や娯楽を楽しめる開かれた場所でした。

現在も島原には市の指定文化財となっている「置屋」や「揚屋」と呼ばれる建物が残っています。

<置屋>
とは太夫や芸妓を抱えて芸を教える教育の場。
お客さんは迎えません。

<揚屋>
現代でいう料亭にあたり、置屋に太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴をしてもらう場所。
江戸時代の始めに作られた揚屋は、
間口が狭く奥行きがある“うなぎの寝床”のような間取り。
一階は台所と居住スペースとして使われ、お客様をもてなすお座敷は二階に設けてありました。
そのため、“お客様を二階の座敷に揚げる”ということから
「揚屋」と呼ばれるようになったと言われています。

※揚屋は「一見さんお断り」のため紹介の無い方は利用することが出来ず、
支払いもその都度の現金決済は行われない「つけ(掛売り)」のみでした。


島原住吉神社
住吉屋太兵衛が自宅に
住吉大明神を祀ったのが起源。
その後1732年に島原の北西に移され、
島原の鎮守神として崇敬されている。

島原大門
わが国最古の公許遊廊島原の正門。
一間幅、本瓦ぶき、切妻の高麗門。


見返り柳(出口柳)も健在

角屋もてなしの文化美術館
角屋(元揚屋)は、島原開設当初から
連綿と建物・家督を維持しつづけ、
江戸期の饗宴・もてなしの文化の場


角屋(臥龍の松)
新選組幹部がいつも宴会を行っていた“松の間”
庭に「臥龍の松」があることから
“松の間”と言われています。



金地桐に鳳凰図



2016年 10月 1日(土) 京都(京都)

<豆萬味>

日本文化の伝統を重んじながら季節感を織り込んだ繊細な味、
”旬のうまいもん”にこだわった、祇園花見小路の料亭です。

<三条珈琲店>

【コーヒー好きなら当たり前】
「その場で作る珈琲ジュレ」が芸術的


 

久しぶりにリフレッシュできました!



西本願寺
正しくは龍谷山本願寺といい、
浄土真宗本願寺派の本山

西本願を創ったのは、豊臣秀吉


唐門(国宝)

東本願寺
正しくは「真宗本廟」といい、
真宗大谷派の本山

東本願寺を創ったのは、徳川家康



2016年 4月10日(日) 京都(京都)

<2016春一般公開>
平成28年4月6日(水)から4月10日(日)までの5日間

<京都御所>
794年、桓武天皇が平安京へ遷都した当時の内裏(御所)は、
京都御苑から約2km西に位置していました。
現在の京都御所は内裏の焼失等の際に、
天皇の仮住まいとなった里内裏のひとつである東洞院土御門殿に由来するもので、
1331年(元弘元年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。

京都御所は、その古来の内裏の形態を今日に保存している由緒あるもので、
現在のものは安政2年(1855年)の造営である。
紫宸殿を始めとし、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿など
平安時代以降の建築様式の移りかわりをつぶさに見ることができます。



京都御所は敷地の四方を築地塀(延長は東西約250メートル、南北約450メートル)
で囲まれている。築地塀は5本の筋の入った、もっとも格式の高いもの


即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式高い正殿
(ここで明治、大正、昭和天皇の即位式が行われました)

中央に天皇の御座「高御座」、その東に皇后の御座「御帳台」が置かれています



御常御殿の南面の襖絵(中段の間 大兎戒酒防微図)
Emperor Yu Warning Against Drinking and Preventing Callamities


  
諸大夫の間(格の高い順に「虎の間」,「鶴の間」,「桜の間」と呼ばれる三室)

久しぶりにリフレッシュできました!



御車寄
昇殿を許された物が、正式に参内する時の玄関


左:御車寄の寄障子(養由基射猿之図)
右:新御車の杉戸絵(春夏花車)

紫宸殿
最も格式高い正殿。
入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築
即位礼などの重要な儀式が執り行われていた。
大正天皇・昭和天皇の即位礼も、
ここで行われたそうです。


「左近の桜」 と 「右近の橘」

小御所(蹴鞠の庭)
諸種の儀式が行われ、
武家との対面にも用いられた。
寝殿造り書院造りの両要素が混合した様式


御池庭
池を中心とした回遊式庭園
全面は洲浜で、その中に舟着への
飛石を置いている


御池庭を進んだ先にある御内庭



2016年 2月12日(金) 京都(京都)

<お座敷遊び>

「和」の趣が残る街並みが美しい都市・京都。
その京都の街を一層、華やかにする存在・「舞妓さん」。
舞妓さんに接することができる「お座敷遊び」は、一生に一度は楽しみたいものですよね。

舞妓さんは、芸妓さんになる前の見習い期間の少女のこと。
年齢は15歳から20歳くらいで、可愛らしく華やかな着物にだらりの帯、かんざしなどが特徴。
舞妓としての見習いが終わり、卒業すると襟かえという儀式をして芸妓さんになります。
芸妓さんには舞を担当する“立ち方さん”と三味線・歌を担当する“地方さん”がいて、
舞妓さんと三人で宴席を盛り上げてくれます。




<一見さんお断り>
一つひとつの“ご縁”を命のように大切にするお茶屋さん
花街では、信頼のおけるお客さんからまた別のお客さん…と、
“人伝い”のつながりによって人の輪を広げていくのが流儀なのです。
一方、長年ご贔屓のお客さんにとって、お茶屋という空間は、 “我が家”のようなもの・・・
このプライベートな場に、
「面識のまったくないお客さん=一見さん」を入れ、酒宴をひらくということは、
見ず知らずの通行人をいきなり自宅に招き入れて食事を共にすることと同じです。

「一見さんお断り」といわれると、突っぱねられたような気分になりますが、
その言葉の裏には、商いを営む側として、
自ら危険を招き入れるような真似は最初からしない、ということが第一にあるのです。
お茶屋さん、女将さんとの間に結ばれた固い絆=『家族』のような信頼関係があるからですね。

 

久しぶりにリフレッシュできました!



国際交流会館
Restaurant TSUMUGI
〜古都の景色につつまれて〜

古都の絶景と庭園。季節を五感で感じる旬の料理
「季節を食べる」がコンセプトの京フレンチです。


蛤御門
京都御苑の西側、もとは新在家御門といい、
閉じていたが天明の大火(1788)の際、
開門、‘焼けて口あく蛤’にたとえて
蛤御門とよばれる。


椋(むく)の巨木
この大きな椋の木は、
このあたりが清水谷という公家の屋敷
であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹令は約300年くらいで
御苑内でも数少ない椋の大木です。

1864年の蛤御門の変の時、
長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で
討死したとも伝えられています。