出張先での雑記帖



京都
Kyoto


気分転換に旅先(モチロン仕事)での画像をお届けします!
(印象に残った画像を都度掲載予定です)






京都(洛東)



2022年 7月 17日(日) 京都(京都)

<ぶらり京都>

<ポケふた>

2021年3月30日、京都市下水道90周年事業の締めくくりとして
ポケモンがデザインされたマンホール蓋「ポケふた」が
嵐山公園・
岡崎公園円山公園・梅小路公園・西京極総合運動公園
市内5ヶ所の公園に設置されました。
伝説のポケモンのホウオウをはじめ、全部で10種類のポケモンです!



5枚のポケふたをコンプリート!暑かった!



岡崎公園のポケふた
平安神宮側、岡崎公園の北西角
「ヒノアラシ&ヒヒダルマ」



平安神宮
平安遷都1100年を記念して
かつての平安京を再現した神社
平安京朝堂院の正門、應天門を元にした
朱色に塗られた鮮やかな門(追手門)


大極殿
平安神宮の外拝殿
碧瓦を屋根に屋根の左右には金色の鴟尾を使用
鮮やかな朱色が美しい社殿



蒼龍楼
京都の街の東を守ると言われる青龍
四方に傾斜のある「四方流れ」の屋根
二重五棟の入母屋造


白虎楼
京都の西側を守護すると言われる白虎
四方に傾斜のある「四方流れ」の屋根
二重五棟の入母屋造



円山公園のポケふた
円山公園の南出入り口
「ピィ&ププリン&ピチュー」


円山公園
1886年に開園した
京都市内で最も古い公園



2022年 7月 16日(土) 京都(京都)

<ぶらり京都>

<琵琶湖疏水>

量豊かな琵琶湖から京都へと水を運ぶ「琵琶湖疏水」は、
滋賀県大津市観音寺から京都府京都市伏見区堀詰町までの全長約20kmの「第1疏水」、
第1疏水の北側を全線トンネルで並行する全長約7.4kmの「第2疏水」、
京都市左京区の蹴上付近から分岐し北白川に至る全長約3.3kmの「疏水分線」
などから成ります。


第1疏水縦断面図

5枚のポケふたをコンプリート!暑かった!



第3トンネル出口
第1疏水から大日山貯水池に
水を上げるポンプを据え付けた
旧御所水道ポンプ室(修復中)


蹴上インクラインの起点

疏水分岐口
蹴上で琵琶湖疏水から分岐する水路
南禅寺船溜への放水口



水路閣
南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水路橋
レンガ、花崗岩造りのアーチ型の橋脚


蹴上インクライン
全長582mの世界最長の傾斜鉄道跡
高低差約36メートルの急斜面
船を運航するための傾斜鉄道の跡地



南禅寺船溜
蹴上インクラインの終点に位置し、
南禅寺付近にある船溜
(鴨東運河の起点)


ねじりまんぽ(蹴上トンネル)
蹴上インクラインの下を通り
南禅寺に向かう歩行者用トンネル
上部のインクラインを行き交う船を
乗せた台車の重さに耐えられるように
渦を巻くような形で螺旋状に
煉瓦が積まれています。


琵琶湖疏水記念館
「琵琶湖疏水竣工100周年」
を記念して建てられた資料館




2019年 2月 8日(金) 京都(京都)

<料庭八千代>

南禅寺参道に面した料庭八千代は、
小川治兵衛のお庭を眺めながら南禅寺名物湯豆腐や京料理を楽しみいただける空間。
京都・湯豆腐が有名な南禅寺。
八千代は安土桃山時代に御所に出入りを許された魚問屋として始まりました。
天正十六年(1588年)豊臣秀吉の頃、
京都・聚楽第にあって盛宴をはるとき、ご用命を受けたと旧記に残っております。
その頃より料亭としても、のれんをかかげ皆様に愛されておりました。
第二次大戦の折り店を移す事となり、
戦後まもなく先祖の家業を上田秋成、小川治兵衛ゆかりの南禅寺でと
料亭と料理旅館を営むようになり、現在も京都の粋を守り続けています。

  


<お座敷遊び>

「和」の趣が残る街並みが美しい都市・京都。
その京都の街を一層、華やかにする存在・「舞妓さん」。
舞妓さんに接することができる「お座敷遊び」は、一生に一度は楽しみたいものですよね。

舞妓さんは、芸妓さんになる前の見習い期間の少女のこと。
年齢は15歳から20歳くらいで、可愛らしく華やかな着物にだらりの帯、かんざしなどが特徴。
舞妓としての見習いが終わり、卒業すると襟かえという儀式をして芸妓さんになります。
芸妓さんには舞を担当する“立ち方さん”と三味線・歌を担当する“地方さん”がいて、
舞妓さんと三人で宴席を盛り上げてくれます。



※久しぶりにリフレッシュできました!


八坂神社
全国にある八坂神社や
素戔嗚尊を祀る約2,300の神社の総本社。
現在の建物は1654(承応3)年に
徳川四代将軍家綱が再建。



知恩院
浄土宗総本山である知恩院
御影堂は現在は大改修中です。



2018年 12月 30日(日) 京都(京都)


<建仁寺>

臨済宗建仁寺派の大本山寺院
建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し
栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。
元号を寺号とし、山号を東山と称します。
天龍寺・相国寺・東福寺・万寿寺と合わせて「京都五山」と呼ばれており、
その第3位に位置づけられている府内屈指の寺院。



<禅居庵>

建仁寺は京都最古の禅寺で、広大な敷地には14もの塔頭寺院があります。
禅居庵はそのうちの一つで京都の猪の寺とされています。
境内に祀られている摩利支天は開運勝利のご利益により遠近より多く参詣者を集め、
「日本三大摩利支天」の一つとして数えられています。
境内にはところせましと狛猪が置かれています。
禅居庵に猪が置かれている理由は
本尊の摩利支天が猪を眷属として従えているからだそうです。

   

※来年の干支は猪! 歳男です!


建仁寺(方丈)
慶長四年(1599)恵瓊が安芸の安国寺から
移築したもので、
優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築


枯山水様式の前庭(大雄苑)

建仁寺(法堂)
慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、
5回目の再建になり、
我が国法堂建築の最古のものである。


本尊釈迦如来坐像と
脇侍迦葉尊者・阿難尊者が安置されている

建仁寺(双龍図)
平成14年に建仁寺創建800年を記念して、
小泉淳作画伯が約2年の歳月をかけ描いた大作


双龍図(小泉淳作)

建仁寺(雲龍図)
襖から掛軸に形を変えた上で、
現在は、京都国立博物館に寄託
高精細複製作品の屏風画として展示中



雲龍図(海北友松)

建仁寺(風神雷神図屏風)
2曲1双で紙本金地着色
現在は、京都国立博物館に寄託
高精細複製作品の屏風画として展示中


風神雷神図屏風(俵屋宗達)

建仁寺(方丈)
建仁寺の塔頭寺院、禅居庵 摩利支天堂
京都の猪の寺とされています。


「日本三大摩利支天」の一つ



2018年 6月16日(土) 京都(京都)


<南禅寺といえば湯豆腐>

京都で湯豆腐と言えば、ここ南禅寺と嵐山が有名とされていますが、
南禅寺周辺の精進料理が湯豆腐の発祥と言われているんです。
湯豆腐はもともとお坊さんの精進料理でした。
いま有名な湯豆腐は昆布だしで豆腐をゆでて食べるのですが、
当時のものは、焼き豆腐を煮たもので
どちらかというとおでんみたいな感じだったそうです。
今でも南禅院の招待料理ではこの煮豆腐が出てきます。
三門より「絶景かな。」と名台詞を残した
石川五右衛門がたべたのは多分、煮豆腐だったんでしょう。



※久しぶりにリフレッシュできました!


順正
順正書院は、江戸時代の
蘭学医新宮凉庭が開設した医学学問所



東山を借景に回遊式庭園

八千代
天正十六年(1588年)、
豊臣秀吉が宴会をするとき、
ご用命を受けたようです。


和風庭園(小川治兵衛)

桜鶴苑
大正4年に築造された歴史ある母屋


山水式庭園(小川治兵衛)

菊水
元呉服商の別荘を利用した
明治30年(1897)開業の料理旅館




2018年 6月16日(土) 京都(京都)

<無鄰菴>

無鄰菴は、明治27年(1894)〜29(1896)年に造営された
明治・大正時代の政治家山縣有朋の別荘です。

無鄰菴は庭園と母屋・洋館・茶室の3つの建物によって構成されており、
庭園は施主山縣有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛により作庭された
自然で開放的な空間の庭園として高い評価を受けています。
母屋は簡素な木造2階建ての建物で、
洋館は新家孝正の設計による煉瓦造り2階建ての建物。
茶室は古田織部好みの代表的茶室である、
薮内流燕庵を模して作られています。


<南禅寺>

京都洛東にある南禅寺は、臨済宗南禅寺派の大本山。
京都でも屈指の格式をほこるお寺です。
創建は約710年前の正応4(1291)年。
文永元(1264)年に造営された離宮を、
亀山天皇が法皇となられたのちに禅寺と改められたのが始まりです。

三門は別名「天下龍門」と呼ばれ、日本三大門の一つに数えられています。
寛永5(1628)年、大坂夏の陣で戦った武将や兵士の慰霊のために
藤堂高虎より寄進建立されたものです。
歌舞伎「楼門五三桐」で、石川五右衛門がこの三門からの景色をみて
「絶景かな、絶景かな」と見得を切るのはあまりに有名。


※久しぶりにリフレッシュできました!


無鄰菴(庭園)
東山を借景とし、
琵琶湖疏水から引き入れた水の流れが
ゆったりとした曲線を描いている。
池、芝生を配した池泉廻遊式庭園。



無鄰菴(主屋)
作庭当初は芝生だったこの地に、
自然に遷移した約50種の苔が広がる。


南禅寺(三門)
5間3戸の荘厳な構えの三門は高さ22m。
別名「天下龍門」と呼ばれ、
日本三大門の一つ。
石川五右衛門が歌舞伎で
「絶景かな」と称した眺め



南禅寺(法堂)
法式行事や公式の法要が行われる場所
南禅寺の中心となる建物


南禅寺(方丈庭園)
江戸時代初期の代表的枯山水庭園。
「如心庭」と呼ばれる小方丈庭園


水路閣
水路閣は、1888年に建設され、
美しいアーチを描く全長93m。
南禅寺の境内に立つレンガ造りの疎水橋



2017年 2月 4日(土) 京都(京都)

<ぶらり京都>

<三十三間堂>
1164年(長寛2)鳥辺山麗の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進しました。
約80年後に焼失してしまうのですが、すぐに1266年(文永3)に再建されました。
その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されています。
長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120m。
正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれ、
堂内には1001体もの観音像が祀られています。
「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。

また見落としがちですが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、
ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物です。



<妙法院>
延暦年間(782-805)に最澄によって
延暦寺三千坊の一つとして草創されたのが始まり。
その後、転々とし、この地に移ったのは元和元年(1615)。
明治維新まで代々法親王が住持され、
天明の大火の際は、
光格天皇の皇后が一時ここに行啓されるなど皇室との関係も深く、
文久3年(1863)に三条実美等7卿が長州藩と当院で密議を交わし、
ここから都落ちしたのは有名。



久しぶりにリフレッシュできました!



三十三間堂
正式名は、蓮華王院。
その本堂が「三十三間堂」と通称されます。
これは、東面して、南北にのびる
お堂内陣の柱間が33もあるという
建築的な特徴によります。


築地壁(太閤壁)
築地塀の築地とは「築き泥」の略。
仮枠を並べて中に土を層状に積み上げ,
乾燥後枠を外す,という方法で造られる。
中に定規筋と呼ばれる白い線を入れるようになり,
やがてその線は5本を最上として,
線の数がその社寺等の格を表すようになった。

5本の線は、皇室に対する,秀吉の「こだわり」

妙法院
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる
別格の寺院を指して「門跡」と言うが、
妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)
とともに「天台三門跡」
と並び称されてきた名門寺院である。

妙法院(大庫裏)
桃山時代の建築。
庫裏は寺院の台所兼事務所の役割
を果たす内向きの建物。
妙法院庫裏は、豊臣秀吉が先祖のための
「千僧供養」を行った際の台所
として使用されたと伝える豪壮な建物。
庫裏は屋根を切妻造とするものが多いが、
当院の庫裏は入母屋造

妙法院(宸殿)
阿弥陀如来座像と
歴代の天皇・皇后・中宮のご位牌が安置。




2017年 2月 3日(金) 京都(京都)

<ぶらり京都>

<節分>
元々は季節が変わる節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、
江戸時代以降は立春の前日だけを指す場合が多くなりました。
節分には邪気悪霊(鬼)が外から入ってくるのを防ぐ為、
「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒き、
年の数だけ福豆を食べて厄除けをします。
豆撒きは平安時代中期の第59代・宇多天皇(867年〜931年)の時代に
鞍馬山の鬼が都を荒らしたことから毘沙門天のお告げにより、鬼の穴を祈祷で封じ、
鬼の目を炒り豆で打ちつぶしたということに由来しているそうです。
なお豆などの穀物には魔除けの呪力や
生命力を持つという穀霊が宿っているとも言われています。
ちなみに豆は鬼の目を表す「魔目(まめ)」から
鬼を滅する「魔滅」を意味するようになったそうです。


<お化け>
花街お化け(おばか)・節分お化けは節分に行われます。
その為祇園では節分のことをお化けとも言うそうです。
お化けでは舞妓・芸妓が普段の着物姿ではなく、
男装などの趣向をこらした仮装を楽しみます。
お客が仮装したり、厄年の者が仮装して厄祓いすることもあるそうです。
なお祇園甲部では舞は京舞井上流と決められているが、
節分だけは他の踊りも許されるそうです。
「お化け」は子どもの様な格好をしたことから「お坊髪」と言われ、
それが転訛して「お化け」になったとも言われています。

京の花街では、節分に芸妓たちが様々な扮装をして
座敷に出掛ける風習がいまなお行われています。
これは、普段と違う装いをすることで鬼を騙して追い払うともいわれており、
祇園などでは楽しいイベントとして人気を集めています。



久しぶりにリフレッシュできました!



八坂神社(節分祭)
日本今様謌舞楽会による今様奉納と豆まき
(2月3日 11:00から)


京都市国際交流会館
市民の国際交流の拠点として1989年にオープン
蹴上インクラインの桜並木と
東山連峰が一望できる、カジュアルな
フレンチレストラン


TSUMUGI KYOTO OKAZAKI

知恩院(三門)
1621年、徳川二代将軍秀忠公の命を受け建立
造は入母屋造本瓦葺で、
高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚
一般には寺院の門を称して
「山門」と書くのに対し、
知恩院の門は、「三門」と書きます。
これは、「空門」「無相門」「無願門」という、
悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門
(三解脱門)を意味しています。

知恩院(唐門)
寛永18年(1641)造営。
江戸初期の建築ですが、
桃山時代の彫刻を生かしており、
牡丹唐草、鯉魚に乗る老人、
巻物を持ち鶴に乗る老人
および松を配した細かな彫刻がなされています。

知恩院(大方丈)
知恩院には、
大方丈と小方丈の2つの方丈があり、
どちらも寛永18年(1641)の建築、
洛中随一の名書院
大方丈は二条城と同様の書院造りの形式。
54畳敷の鶴の間を中心に、
上・中・下段の間、松の間、梅の間、柳の間、
鷺の間、菊の間、竹の間と武者隠しの部屋があり、
狩野一派の筆による
金箔・彩色の襖絵に彩られた
豪華な雰囲気を漂わせています。

知恩院(方丈庭園)
江戸時代初期に小堀遠州と縁のある
僧玉淵によって作庭されたと伝えられる
池泉回遊式の庭園。



2016年 12月17日(土) 京都(京都)

<南禅寺を訪ねて>

日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇り、
京都五山の上におかれる別格扱いの寺。
臨済宗南禅寺派の本山。
1291年(正応4)亀山法皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。
室町時代は隆盛を極め、「五山之上」に列せられた。
応仁の乱で焼失した伽藍を‘黒衣の宰相’といわれた以心崇伝によって復興。
境内には勅使門、三門、法堂、方丈の伽藍が一直線に、その周辺に12の塔頭が並ぶ。
三門は、藤堂高虎の寄進。方丈(国宝)は、大方丈と小方丈に分かれ、
大方丈は御所の殿舎を、小方丈は、伏見城殿舎を移築したと伝えられる。

亀山法皇が造営した離宮の禅林寺殿を、
正応4年(1291年)に寺に改め禅林禅寺と名づけた。
開山(初代住職)は無関普門禅師(大明国師)、開基(創立者)は亀山法皇。
室町時代には「五山の上」として、日本の禅宗のなかで最も高い位につき、
五山文学の中心地として栄えた。
創建当時の伽藍は応仁の乱で焼失してしまった。
広大な敷地に立つ現在の伽藍は、桃山時代の再建がほとんどである。

<金地院庭園:「鶴亀の庭」>

金地院の方丈前庭は「鶴亀の庭」として有名。
小堀遠州作庭と確証された唯一の蓬莱式枯山水庭園。
禅寺としては珍しく豪快で華やか。庭いっぱいに鶴亀が向かい合う姿を表現。
前面の白砂は、宝船を象徴すると同時に海洋を表し、
鶴島と亀島の中間に郡仙島を象る石を点在せしめ、
その奥の正面崖地には蓬莱連山を表わす三尊石組を配し、
来訪者の萬世を寿ぐ祝儀の庭として非常に格式の整った蓬莱式枯山水庭園である。




<南禅寺ぎんもんど>
かつての近江の豪商、小林吟右門の別荘跡として、贅を尽くしたゆったりとした空間。
落ち着いた数寄屋造りのお屋敷は、趣ゆたかな池泉庭園へとつらなり、
四季折々の風情をゆったりとお楽しみいただける京料理の料亭です。

 

※リフレッシュできました!


南禅寺(三門)
5間3戸の荘厳な構えの三門は高さ22m。
別名「天下龍門」と呼ばれ、
日本三大門の一つ。
石川五右衛門が歌舞伎で
「絶景かな」と称した眺め



南禅寺(法堂)
三門を入り正面に建っている伽藍が法堂。

豊臣秀頼の寄進した法堂は、
明治28年に焼失し、
現在のものは明治42年に再建された。
法堂内部の中央には、
釈迦如来像・文殊菩薩・普賢菩薩の
三体がまつられている。

南禅寺(方丈)
桃山時代の建築技術の粋を集めた
寝殿造の優雅な建物「大方丈」と
桃山時代の小書院を移した「小方丈」で構成


「虎の子渡し」 と 「如心庭」

南禅院(方丈
亀山天皇は、1289年離宮で出家して
法皇となられ、離宮を寄進して
禅寺とし大明国師を開山。
ここは離宮の遺跡であり、また南禅寺発祥の地


鎌倉時代末の代表的池泉回遊式

水路閣
水路閣は、1888年に建設され、
美しいアーチを描く全長93m。
南禅寺の境内に立つレンガ造りの疎水橋


南禅寺 金地院
南禅寺塔頭。
足利義持が北山に創建、
1605年崇伝により現在地に移築された。

寺号の金地院とは、釈迦存命の頃、
弟子の須達長者が「金」を布き、「土地」を
買い求めて祇園精舎を造営した。
このように仏に献じたことに倣い、
金地院と称するといわれる。

南禅寺 金地院(東照宮)
徳川家康の遺嘱により江戸時代、
1628年に造営された。京都唯一の権現造様式。


三十六歌仙の額(土佐光起筆)
天龍図(狩野探幽筆)

南禅寺 金地院(鶴亀の庭)
亀島: 中央に亀甲石の三尊石、
左端が亀尾石、ビャクシンが植えられている
鶴島: 左下の長形の石は「鶴首石」と呼ばれ、
本来は石橋に使う予定だったという。


「亀島」 と 「鶴島



2016年 12月10日(土) 京都(京都)

<無鄰菴を訪ねて>

無鄰菴は、明治27年(1894)〜29(1896)年に造営された
明治・大正時代の政治家山縣有朋の別荘です。

無鄰菴は庭園と母屋・洋館・茶室の3つの建物によって構成されており、
庭園は施主山縣有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛により作庭された
自然で開放的な空間の庭園として高い評価を受けています。
母屋は簡素な木造2階建ての建物で、
洋館は新家孝正の設計による煉瓦造り2階建ての建物。
茶室は古田織部好みの代表的茶室である、
薮内流燕庵を模して作られています。

無鄰菴の施主 山縣有朋は、
明治政府で陸軍大将や総理大臣を務めた大物政治家でしたが
他方では、お庭に対する感性がとても研ぎ澄まされた数寄者でした。



※リフレッシュできました!


無鄰菴(庭園)
東山を借景とし、
琵琶湖疏水から引き入れた水の流れが
ゆったりとした曲線を描いている。
池、芝生を配した池泉廻遊式庭園。



醍醐寺三宝院の滝を模した三段の滝と池。

無鄰菴(主屋)
作庭当初は芝生だったこの地に、
自然に遷移した約50種の苔が広がる。


無鄰菴会議(洋館)
洋館は明治31年の建立。

2階には江戸時代初期の狩野派による
金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、
ここで明治36年(1903)4月21日、
元老・山県有朋,政友会総裁・伊藤博文,
総理大臣・桂太郎,外務大臣・小村寿太郎
の4人によって
日露開戦直前のわが国外交方針を決める
「無鄰菴会議」が開かれました。



2016年 11月 6日(日) 京都(京都)

<京都五山>
五山制度は中国の宋時代に、禅寺の寺格を定めた制度。
日本でも鎌倉時代に宋に倣い取り入れられ、
鎌倉幕府によって五山が制定されました。
続く室町幕府は禅宗を保護したため、禅宗の普及とともに広まり、五山を制定。
後に室町幕府三代将軍・足利義満の時代に五山制度を改革し、
それまで京都と鎌倉の寺院で構成されていた五山を、
京都五山と鎌倉五山に分割しました。

まず鎌倉時代に始まった鎌倉五山の話から入ります。
中国・南宋の五山十刹の制にならって、鎌倉時代に北条氏が各禅刹の寺格を決め、
官が任命した住寺を順次上位の寺へと昇任させる五山の制度を取り入れ、
鎌倉にある主な五つの禅寺を五山としました。
これが鎌倉五山といわれます。
しかし武家中心の五山であったため、明確には制度化されませんでした。
一方、京都にも禅寺が相次いで開かれました。
そうした中、鎌倉幕府が倒れ室町時代になると、
京都を中心とした五山の順位が定められました。
早いものでは、「五山」は
第一.南禅寺(京都)
第二.東福寺(京都)
第三.建仁寺(京都)
第四.建長寺(鎌倉)
第五.円覚寺(鎌倉)
その後変遷を経て、暦応五年(1342)には
第一.建長寺(鎌倉)・南禅寺(京都)
第二.円覚寺(鎌倉)・天龍寺(京都)
第三.寿福寺(鎌倉)
第四.建仁寺(京都)
第五.東福寺(京都)
とし、浄智寺(鎌倉)を准五山とする、鎌倉優先の順位が定められたこともありました。

しかし、足利義満は相国寺を創建してのち至徳三年(1386)に、
鎌倉五山と京都五山の分離を行い、南禅寺(京都)は別格で「五山之上」とされ、
鎌倉・京都にあってそれぞれ最高位に位置する禅宗寺院の五大寺を

別格(五山之上)南禅寺
第一.建長寺(鎌倉)・天龍寺(京都)
第二.円覚寺(鎌倉)・相国寺(京都)
第三.寿福寺(鎌倉)・建仁寺(京都)
第四.浄智寺(鎌倉)・東福寺(京都)
第五.浄妙寺(鎌倉)・万寿寺(京都)

というように、対等に鎌倉と京都の禅刹が据えられました。
現在知られている鎌倉五山、京都五山が、この順位です。

このように五山制度はその時代や政治によって大きく変わり、
数も必ずしも五つとは限りませんでした。
また、大徳寺や妙心寺はかつては五山に数えられていましたが、
足利氏を中心とした政治的背景により五山から外れています。
京都五山の順位は時の権力者の思惑で、何度か変わっています。


<建仁寺>
臨済宗建仁寺派の大本山寺院
建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し
栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。
元号を寺号とし、山号を東山と称します。
天龍寺・相国寺・東福寺・万寿寺と合わせて「京都五山」と呼ばれており、
その第3位に位置づけられている府内屈指の寺院。



※撮影禁止のためパンフレットを撮影しました!


建仁寺
庫裏は「香積院」と称し
大きい破風や壁面が印象的



庫裏

建仁寺(方丈)
慶長四年(1599)恵瓊が安芸の安国寺から
移築したもので、
優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築


枯山水様式の前庭(大雄苑)

建仁寺(法堂)
慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、
5回目の再建になり、
我が国法堂建築の最古のものである。


本尊釈迦如来坐像と
脇侍迦葉尊者・阿難尊者が安置されている

建仁寺(双龍図)
平成14年に建仁寺創建800年を記念して、
小泉淳作画伯が約2年の歳月をかけ描いた大作


双龍図(小泉淳作)

建仁寺(雲龍図)
襖から掛軸に形を変えた上で、
現在は、京都国立博物館に寄託
高精細複製作品の屏風画として展示中



雲龍図(海北友松)

建仁寺(風神雷神図屏風)
2曲1双で紙本金地着色
現在は、京都国立博物館に寄託
高精細複製作品の屏風画として展示中


風神雷神図屏風(俵屋宗達)



2016年 10月 1日(土) 京都(京都)

<ぶらり京都>

<豆萬味>
日本文化の伝統を重んじながら季節感を織り込んだ繊細な味、
”旬のうまいもん”にこだわった、祇園花見小路の料亭です。

<三条珈琲店>
【コーヒー好きなら当たり前】
「その場で作る珈琲ジュレ」が芸術的


 

久しぶりにリフレッシュできました!



八坂神社
祇園祭でも有名な京都府にある八坂神社。
祇園の街のシンボル「祇園さん」
縁結びスポットとしても人気の高い神社


八坂神社のご祭神は「素戔嗚尊」

建仁寺
京都最古の禅寺
臨済宗建仁寺派の大本山寺院で、
源頼朝の嫡男で鎌倉幕府第2代将軍
頼家によって創建


風神雷神図屏風 & 雲龍図



2016年 2月12日(金) 京都(京都)

<ぶらり京都>

<お座敷遊び>
「和」の趣が残る街並みが美しい都市・京都。
その京都の街を一層、華やかにする存在・「舞妓さん」。
舞妓さんに接することができる「お座敷遊び」は、一生に一度は楽しみたいものですよね。

舞妓さんは、芸妓さんになる前の見習い期間の少女のこと。
年齢は15歳から20歳くらいで、可愛らしく華やかな着物にだらりの帯、かんざしなどが特徴。
舞妓としての見習いが終わり、卒業すると襟かえという儀式をして芸妓さんになります。
芸妓さんには舞を担当する“立ち方さん”と三味線・歌を担当する“地方さん”がいて、
舞妓さんと三人で宴席を盛り上げてくれます。




<一見さんお断り>
一つひとつの“ご縁”を命のように大切にするお茶屋さん
花街では、信頼のおけるお客さんからまた別のお客さん…と、
“人伝い”のつながりによって人の輪を広げていくのが流儀なのです。
一方、長年ご贔屓のお客さんにとって、お茶屋という空間は、 “我が家”のようなもの・・・
このプライベートな場に、
「面識のまったくないお客さん=一見さん」を入れ、酒宴をひらくということは、
見ず知らずの通行人をいきなり自宅に招き入れて食事を共にすることと同じです。

「一見さんお断り」といわれると、突っぱねられたような気分になりますが、
その言葉の裏には、商いを営む側として、
自ら危険を招き入れるような真似は最初からしない、ということが第一にあるのです。
お茶屋さん、女将さんとの間に結ばれた固い絆=『家族』のような信頼関係があるからですね。

 

久しぶりにリフレッシュできました!



国際交流会館
Restaurant TSUMUGI
〜古都の景色につつまれて〜

古都の絶景と庭園。季節を五感で感じる旬の料理
「季節を食べる」がコンセプトの京フレンチです。



2015年 12月12日(土) 京都(京都)

<南禅寺ぎんもんど>

かつての近江の豪商、小林吟右門の別荘跡として、贅を尽くしたゆったりとした空間。
落ち着いた数寄屋造りのお屋敷は、趣ゆたかな池泉庭園へとつらなり、
四季折々の風情をゆったりとお楽しみいただける京料理の料亭です。



※京風寄せ鍋でほっこりと・・・美味かった!


南禅寺
臨済宗南禅寺派の大本山
正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」
日本で最も優れた禅僧」を
南禅寺の住持とするよう定められた。


平安神宮
平安遷都1100年祭(1895年・明治28)
に市民の総社として鎮座。
応天門は、平安京大内裏の
正庁朝堂院の南面正門



応天門