出張先での雑記帖



大阪
Osaka


気分転換に旅先(モチロン仕事)での画像をお届けします!
(印象に残った画像を都度掲載予定です)






2017年 4月21日(金) 大阪(大阪)

<ぶらり大阪城>

天下一の黄金の和船
豊臣期の大坂城と城下町を描いた貴重な屏風絵
「豊臣期大坂図屏風」の中に見られる秀吉の「鳳凰丸」をモデルに、
大坂の陣から400年を経た平和な大阪で、秀吉が生きていたら、
黄金の御座船にするだろうという意を込めて、
船全体に純金箔約3千枚を貼り付け、
制作費は約1200万円とのこと・・・

金の鯱といえば名古屋城の鯱が有名ですが、
日本で初めて金の鯱を天守閣に乗せたのは
豊臣秀吉で大阪城が最初ともいわれています。
豊臣秀吉時代の大阪城は黒壁だったいわれていますので、
ちょうど現在の最上階部分の黒壁と金の鯱が
安土桃山時代の光景に類似しているのではないかといわれています。




久しぶりにリフレッシュできました!



大阪城御座船
【天下一の黄金の和船
大阪城に黄金色の御座船が登場!
金箔貼りの御座船(和船)で、
大阪城内濠を遊覧する
お濠めぐりを期間限定で実施中


金の鯱
鯱は、建物が火事の際には
水を噴き出して火を消すという
想像上の動物で、
それを模した物を大棟の両端に取り付け、
鬼瓦同様に災害などからの
守り神とされた。

伏虎
大坂城天守閣の外壁には、
8頭の金色の「伏虎)」があしらわれ、
四方ににらみをきかせています。

朝鮮出兵(1592〜98年)では、
滋養のため虎肉を欲しがった
秀吉に献上しようと、
大名らが盛んに虎狩りを行ったとされます。

太閤菊の紋
大坂城天守閣には、
大棟や大破風など黄金色に輝く
装飾品が多数用いられています。
この太閤菊の紋もその一つで、
当時の破風飾りを再現したものだそうです。

大阪城(天守閣)
現在の大阪城天守閣が
完成したのは昭和6年。
豊臣時代、そして寛文五年(1665)
落雷により焼失した
徳川時代に続く三代目の天守閣



2016年 2月13日(土) 大阪(大阪)

<花ウメ>

 厳しい寒さの中、百花に魁て花を開き、清楚に香る梅の花。
そのゆかしい趣は、日本人の感性を優しく包むきわめて日本的な風情であるが、
梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、
遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされましたそうです。

大阪城梅林には、内濠の東側、約1.7haの広さに約1,270本近くの梅が植えられています。



※見事な梅です!

久しぶりにリフレッシュできました!



大阪城(梅林)
大阪府立北野高校の卒業生が
開校100周年事業として、
22品種、880本を大阪市に寄付した事で、
昭和49年3月に開園となりました。



大阪城(天守閣)
現在の大阪城天守閣が完成したのは昭和6年
豊臣時代、そして寛文五年(1665)落雷
により焼失した徳川時代に続く三代目の天守閣


金鯱



2014年 11月30日(日) 大阪(大阪)

<大阪城>

 大坂城は天下統一をめざす豊臣秀吉によって天正11年(1583)、
大坂(石山)本願寺跡で築造が開始された。
城の本丸のなかで最も中心の建物である天守閣はその2年後に完成したが、
元和(げんな)元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに天守閣も焼失。
徳川時代になって再建されたものの寛文5年(1665)、落雷によって再び焼失。
以来、大坂城は天守閣のないままだった。
現在の天守閣は昭和6年(1931)、当時の関市長の呼びかけで市民らの寄付により、
約150万円(現在の約750億円に相当)が集められ建造されたもの。


  

  
※見事な紅葉です!

久しぶりにリフレッシュできました!



大阪城(天守閣)
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれている。
別称は金城あるいは錦城という。
「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、
現在は「大阪城」と表記することが多い。



金鯱

大阪城
豊臣秀吉が天正13年(1585年)に完成させた
大阪城の天守閣には、
純金の虎の彫金がはめこまれていたそうです。


黒い壁をバックに金箔を押された
虎のレリーフ

大阪城の巨石(蛸石)
通称本丸にある有名な「蛸石」。
左の方にタコが寝ているようなシミがあるので
そう呼ばれているらしい。
表面積が大阪城内で一番広く36畳敷き。
推定重量は130トンといわれていたが、
調査で予想より厚みがないことが分かり、
もう少し軽いといわれている。

豊国神社
豊國神社は、その主祭神である
豊臣秀吉がかつて天下経営の拠点とした
大坂城の跡にある
大阪城公園内に位置するが、
創建当初からそうだったのではなく、
かつては中之島に鎮座していた。
秀吉のほか豊臣秀頼、豊臣秀長も祭神とする